213. 年始のあれこれ - 2024.1.1~3
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
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この時期には、やはり思い出してしまいます。わたしは、2016年1月の告知でした。2月で、術後から丸8年が経過します。
舌の切除は半分で、再建材料(皮弁)は太腿からでした。太腿の傷は、私の場合は、まったくきれいになりませんでした。今も、けっこう長くて目立ちます。(運動の機能には全く問題ありませんし、痛みも一切無いです。)
位置が外側のため、工場で作業着に着替えるとき、更衣室で質問されたことが何回かあります。わたしの滑舌が悪いこと(お口の病気?脳梗塞?みたいな謎な印象)と、太腿の傷との関連を思いつくかたは、もちろん皆無です。太腿の凄い傷、何か事故ですか?と聞かれました。
まあいろいろあって...と言葉を濁しました。(じつは舌を半分切った跡地に太腿のお肉を埋めています、と説明するのもちょっと億劫で...。)
片側の頸部廓清の傷も、Pre-気管切開(その準備だけで本当の気管は無傷なのですが)の傷も、あまりきれいになりませんでした。
これは患者会で同様の術式のかたをみると、わたしの傷が深いというか痕は、けっこうはっきりしていると自分で思いました。
術側の顎下から首回りの、体の表面が "つっぱった" 感じも、まったく良くなりませんでした。術後の放射線を終えた 2016年5月ころから、あまり変わっていません。
温泉はもちろんですが、家のおふろの浴槽レベルでも、湯につかってあったまると忘れられます。そのときだけです。これも皮膚といえるかもしれません。
つまりわたしの場合、皮膚に関することは、全般的に、年数を経ても、あまり回復しなかったようです。首回りについては、放射線の治療中も治療後も、ほとんど何も皮膚の特別なケアはしませんでした(特に火傷のような症状は、その終盤になるまでは殆ど無かったこともあり...)。
(ご参考:後になって知りましたが、頭頸部の放射線治療をされたかたで、初日から最後まで、その日の放射線の後、その日のうちに、何かのクリームを塗っていたかたがいらっしゃいました。自己流とのことでした。放射線の治療をしたのに、皮膚の痕は、ほぼ無かったかたのお話しを思い出しました。舌がんではないかたです。)
次に気になるのは滑舌です。1年目は話がなかなか通じませんでした。丸2年が過ぎて3年目になったころから、第二の自分といいますか、これが自分の発声という割り切りができるようになりました。
日中に話しとおした後、夕方や夜からの会議は、今だに、残った半分のほうの舌が動かなくなってしまい、なかなか辛いです。舌は筋肉ですので "筋トレ" がまだ足りないのかもしれませんが、バテてどうにもならない感じです。
でも、そこまで会議が立て込んでいることは毎日ではないので、頑張るしかない、という、気持ちだけです。具体的にはお腹から声を出して(舌は動かせなくても)口や頬を動かそうとします。
食べるのが遅くなったのは、柔らかいものを頼むようにしたり、極端に辛いものは避けたりしてコントロールできています。
3年目からなのですが、ちょっと困ったことがおきるようになりました(いまでも覚えています、はじめては 2018年の夏の仕事での夕食会)。
とても飲み過ぎると、頸部食道あたりでしょうか、喉の奥が少しだけキュッとすぼまった狭い感じがすることがあるのです。
そのときにご飯を(最後の〆とかで)かっくらう、というのでしょうか、急いで食べてご飯のかたまりを丸のみしようとすると、つまります。息はギリギリ、静かにスーハーできますが、会話は、できません。
そこまでお酒を飲まない時であれば(お酒を飲んでいてもほどほどであれば)、そういうお米をかっくらうことは大丈夫です。だから飲みすぎ注意ということだけです。
飲みすぎると、少しだけ狭くなっていて、ご飯のかたまりだけなのですが、少し通らない感じになります。予兆がなくて、そこで気づきます。美味しいとパクパク食べるので、これは凄く気をつけています。
どういうわけか、今のところ、ご飯のかたまり(といっても御箸で自然にとらえますサイズ)以外では、この現象はおきません。なので流れ的に、〆を一人一人で選んでお願いできますときは、お茶漬け一択です。
いや単に、飲みすぎなければ良いだけの話なのですが...💦
逆に、気になることが上記くらいであり、がんになる前と同じような仕事が続けられていることは、とてもありがたいことだと思います。
たまにこうして思い出して、当時の先生方や医療スタッフのかたがたへの感謝の気持ちを忘れないで、生きていきたいと思います。
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朝の散歩も、年末からの休みモードに、すっかりだらけてしまいました。
本日 1/3 から、早朝の散歩を再開しました。朝焼けがきれいでした。
長男が大みそかに帰省し、お正月はおかげさまで家族で過ごすことができました。
元日は、皆でわたしの実家に行きました。
わたしの母が、孫たち(わたしの子どもたち)がそれぞれが小学生低学年頃に、ばぁば宛に書いた、おねだりメモを大事に箱にとっておいていました。
2人とも『ゲームがほしい』って同じ文言😅...ストレート...
父はというと、わたしと妻と長男も少し頂いたからか、機嫌よく飲んでしまい...とうとう
”吹き矢" の演技...😆(実物は、まだ練習場所から持ち帰れないとのことで)
棒は、以前の趣味の、そば打ちの棒とのことです
1/2 は、急きょ、在宅で少しだけ仕事をしました。会社のことは、メールや電話での対応で、ひとまず必要なことは完了できました。
※能登地震で被災された方々や海保の航空機事故には、わたしも言葉がありません哀しい気持ちでおります。関係のかたがたには、心よりお見舞いを申し上げます。
本日 1/3 は、妻の実家にご挨拶。一番人気は、義兄が持参された美味しい梅酒でした。
妻は、物が増えていることが気になっていました(人は、子どもたちが独立して減っているのに)。
わたしも実家の、片付いていない物の多さは、数年前から気になっています。
帰りの駅までの道すがら、その話をしたとき、長男が次男に
「こっち(妻の実家)とあっち(1/1のわたしの実家)と、どちらが物が多くて散らかっている?」と聞いて
「う~んこっちかな~」とのこと
たぶん妻の実家のほうが全体の箱が大きくて、物の多さのスケールが大きい感じなのです。
わたしの今の実家も、箱は小さくても、その大きさ相当には散らかっていて...
こうした実家の片付け(の手伝い)が、今年の課題だと感じました。
P.S. おまけー朝みた賢そうなカラス...注意深くあたりを伺っている...
P.S. その2...年始のふりかえり...
2023年の年始...前年 2022年に印象に残ったこととして、知り合って当時お世話になった方が、実は(わたしとは部位が違う)がんサバイバーだったとその初対面時に知って、お互い驚いたことにふれています
2022年の年始...サバイバー仲間の悲しいお別れが続きました
2021年の年始...コロナ下で近場のお出かけの日々...5年寛解の年ですが、そのことには年始の記事にふれていません...術後5年(2月)でなくて退院後5年(5月)でホッとした覚えがあります
2020年の年始...黒柳徹子さんの "徹子の部屋" で堀ちえみさんの回が 1/7 であることにふれています(タイムリーにはみれませんでしたが後で youtubeをみて、黒柳徹子さんが "あなたの個性だから気にしないで" と話し方を気にする堀ちえみさんに仰ったのに涙...)
コロナ元年(?)、2月末まで普通にサバイバー仲間と飲み会をしていました
2019年の年始...前年 2018年から東京に転勤し、海外や国内の拠点に出張する日々でした
再発は術後2年が要注意と言われていましたので、この頃から仕事の責任の幅も広がり、いろいろと自信をつけてきたように思います
2018年の年始...闘病中の念願であった台湾へ家族で旅行し、当地の台湾人の友人と再会し(そういえば "職業上の同僚" です)、当地で年を越しました
2017年の年始...まもなく術後1年という緊張が残るのが文面でわかります...このときに既に、"首のつっぱり" について、あれこれ書いています...やはり今に至る一番の後遺症だと改めて痛感します(...結果的に主治医の "予言" 通りでした...)
それにしてもこの AmebaOwnd のブログ本体の一覧性が良くないので(いろいろできるはずが、つくりかた・機能を勉強しない自分の問題なのですが)、簡単に何とかしたいものです...
せめてこうした節目で、しおりというかタグというか、X年前のこの時期みたいな感じでふりかえって、検索しやすいようにしようと思います(前も桜の季節のときに、そうしていて自分の参考になりました)
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